黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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「平野國臣」と「人間とは何か」3
先般の平野國臣氏生誕際の様子を取り上げた西日本新聞記事を、
平野神社から封書にてお送りいただけました。
最近私は、太平洋戦争について考える時間が増えていますが、
改めて日本国の臣であろうと志した平野氏の崇高さを感じているところです。
前回の続きから、「人間とは何か」を考えながら、平野國臣を追ってみようと思います。

(数字は人間についての考察。深澤清氏談、窪島文代氏まとめ)

69.気持ちの変化が考えを変える。
  考えをいくら変えても気持ちを変えることはできない。

70.ロマンのある話は人を動かす。
  元気の出る話は人を動かす。

以下は、平野國臣が桜田門外の変が生じて、
志士への風当たりが強くなった時期に詠んだ歌です。
ーーーーーーーーーーーーー
国のため 悪しかれとしも思わざる 心づくしを知る人のなき
難波江は 悪しき波風たつほどは 身をつくしても世にしのばばや
今更に 惜しむ身にしはあらねども なおしのぶるや君の代の為
ーーーーーーーーーーーーー
身の安全が保証されない状況にあっても、非常にロマンが溢れています。
だからこそ、150年以上の年月を経ても行動者、平野國臣は人々に影響を与えています。

71.能動的に動いた人が継続した力になる。
  情でも人は動くが、継続した力にはならない。

平野國臣は、獄中のなかでも自分の考えを世に表明しようと決意を変えず、
自らの食べるものも削り、極限の生活をして、
便所の落し紙を使って、意見を必死に文字に認めつづけました。
彼は、情で短期的に人助けをしたことは数えきれませんが、
自らの行動を変化させる時には常に自分の意志で行動を遂げました。
平野國臣
京都大学附属図書館 維新資料画像データベース
「尊攘堂史料 平野国臣紙撚文書」

74.主体性とは、
  自分の性格通りに生きること。
  自分で決めること。
  思想や哲学があること。
  性格に方向性を持つこと。

果たして2013年の日本にどれだけ多くの人がここで言う、
主体性を持って行動を行っているでしょうか。
かくいう私も非常に疑問を感じるほど主体性がない人間だと痛感しています。

自分で決めるということは、何らかの身の回りの課題を、
他人に依存せずに、最終的には自分自身で処理していく必要があります。
責任を持つことをないがしろにしてしまった人が増え続けた結果、
政治についても誰も信頼をしなくなってしまったのが、今の日本です。
しかしながら、だからといって放置すればさらに国民のためになりません。

人間とは何かをしっかり考える事は国とは何かを考える事にも繋がります。
物事を狭い視野で見るのではなく、常に自分を客観的に捉えるためにも、
もう少しだけ、本質的な課題をふまえてみる必要があるのでは。
いろいろな行動に対して。

JUGEMテーマ:人間関係
平野國臣 | 23:50 | comments(0) | - | - | - |
「平野國臣」と「人間とは何か」2
なぜ、幕末の志士「平野國臣」が「人間とは何か」のテキスト足りうるか、
人間についてまとめられたエッセンスのいくつかをご紹介しよう。

今日紹介するのは、まずその触りであるけれども、平野國臣の足跡を知った上で、
下の文章を読んでみるだけでも、きっと、彼の動いている雰囲気が、
人間を的確に表現する一つの手本である事を理解いただけるはずである。

28.「人間が生きる時に夢と勇気とロマンが生まれてくる」

38.「人間誰でも自分の思ったように生き、考えたように行動する。
   その判断基準はその人の性格にあり、行動の源泉もその性格にある。」

45.「短所をなくす努力は必要ない。
  長所を伸ばしきれば、短所がその人の個性となる。
  長所ばかりの人間は面白味がない。」

48.「性格を変えることは出来ない、性格は変わることがない」

49.「考えを変えることは出来る、考えは変わることがある。
  すると、性格が変わったように見える。これは現象である。」

53.「人間はその人の大きさ(能力、度量)によって他人から学びもし、
  あるいは影響を与えることができる。
  どんな人に巡り会っても何も学ばず、影響を与えられない人もいる。
  それは人間の器の大きさの限界というものであろう。」

54.「人間の行動や能力は2つの要因によって定まる。
  もって生まれた”天性”、環境による”育成”である。」江崎玲於奈

59.「魅力は相手が感じるものであり、性格に魅力がある」

61.「性格と考え方で限界が生まれる。
  性格にそった考え方をする。結果として小心であったり、臆病であったり。
  ↓
  限界は身の保身から生まれる。
  訓練をして小さな成功を積み重ねていく事が大きな成功になる。」

65.「動物はエサを食べるだけで(に)生きている。
  人間は創造性、想像力を発揮して生きるのが、人間の真骨頂。」

67. 「人間は働く=人間は目的を持って動く。
   動物は動く=動物は動くだけ。」

68.「人間を動かすのは情緒(気分、情感)
  理屈だけでは動かない。
  情緒だけで動くと方向がない」
平野國臣 | 07:54 | comments(0) | - | - | - |
「平野國臣」と「人間とは何か」
3月30日・31日長崎県波佐見町にて、”縁游義塾”という
「人間いかに在るか」「人間いかに生きるか」「人間とは何か」
について考える講座が開かれた。
深澤塾長、窪島塾頭、山田副塾頭、私城後が参加者である。

そこでは、「人間とは自然一切と関わり合いながら変化する現象的存在である」
という基本理念の下、
「人間とは何か」について深澤塾長が約20年に渡り、
窪島塾頭、山田副塾頭に向かって語った言葉のまとめ、
452のキーワードについて、そのエッセンスをディスカッションしあった。

この四人で、人間と人間の関わり合いについてさらに考えを深め、
人間が本質を見失い行止っている日本社会に向けて、人間の本質を発信していくことを確認し、
今回第四回目であった縁游義塾の講座はお開きとなった。

私は、波佐見から東京への帰路飛行機の中で、
その452の言葉に目を通しながら、
半分を過ぎたあたりでふと気が付き思わず涙を流していた。

「平野二郎國臣」という幕末時代の先駆者であった志士である彼こそが、
「人間とは何か」を今の時代に伝える格好の人物であるではないかと。

福岡藩士であった平野は、まだ長州も薩摩も幕府の人間も、幕藩体制はずっと続くと思い、
ノホホンと日々を生きていた時代に、江戸や長崎など海外事情に聡い土地を歩き、
各地の有力者と議論する中で、この日本の体制は長くは続かず、
民の生活が成り立たないことに気付き、
幕府を討ち、天皇の下で人民階級が一つに統一されなければならないと悟り、
行動を開始する。

家族を捨て、藩士という身分を捨て、身一つで全国を行脚し、
同志を求め、商人にも仕え、藩主・天皇に意見具申し、討幕の仕組みづくりに死力する。

途中、幕府が勢力を盛り返さんとする時勢により、
福岡藩の獄舎に入れられ、死罪に処されることも想定されるなか、
その討幕の志には一寸のためらいももたず、
自らの策を具申するために、食事を削り、落し紙と米粒を使って、文字を編み続ける。

一年弱で獄を出たのちは、朝廷に認められ学習院出仕となり、
天皇にその働きを認められるまでになるが、
逆にそのことで幕府の目の敵となり、生野挙兵の失敗によって、
再び京都の獄中に入れられ、結果として命を奪われることとなる。

しかしながら、平野は国家を一つにするための活動を始めてから、
腹を切るまで一貫して事が成就することに希望を持ち続け、
同志を励まし、活動に前向きに取り組み続けた。

明治維新の原動力となった彼の思想哲学や行動の足跡は、
明治政府からその後の昭和時代まで、時の政府有力者の正当性を
否定するものであったため、日の目を見る事がなく、
光の当たらないところで眠り続けた。

しかし、時代が求め続けたことにより、
他人の手が加えられていない、平野の書簡が見つかり、
昨年、福岡藩の研究者である小河扶希子氏によって、平成の世の中に蘇った。

これを手がかりにすると、「平野二郎國臣」の生涯は、
「人間とは何か」を学ぶ最高の教えとなりうる。
平尾國臣氏の筆跡には、普遍性のある人間哲学を追究した行動を呼び起こす力がある。

私、城後光は平成二十五年四月一日、そのことに気付き、
平野國臣を追い続け、人間性回復運動の一歩を踏み出すことをここに決意する。

太宰府天満宮
平野國臣が最初の仕事として改修工事に従事した「太宰府天満宮楼門」
JUGEMテーマ:幕末 歴史
平野國臣 | 07:26 | comments(2) | - | - | - |
平野國臣 vol.2
1845年(弘化二年)11月、18歳の冬、平野國臣は江戸藩邸勤務となる。
平野は、江戸到着後町の様子を地元の知人に送っている。すでに和歌に長けていた。

そそごうと しもく目算したけれども 鐘がなくてはならぬ世の中
(意味:ものを買おうとしかけれど、福岡と江戸の物価が違ってとんと困った)

1846年(弘化三年)閏五月、アメリカ船が浦賀にて幕府への通商を要求する。
二百年に渡って長崎という唯一の鎖国時の窓口を警備していた福岡藩であるが、
この幕府に対して通商要求が続き、江戸湾の警備強化令を出したことによって、
初めて先端技術を取り入れ「精錬所を興し反射炉を設置」することに決めた。
すでに大藩は、とっくに大砲、洋砲を製造していた。
つまりは、福岡藩には自ら率先してという行動はほとんど見られなかった。

1848年(嘉永元年)10月3年の江戸在勤を終え、故郷に戻る。
そして、養父小金丸彦六の三女・菊16歳と結婚する。
世情が変わるっていることを読み取り、武術・学問の修行であった。

1851年(嘉永四年)、24歳の春、宗像大社沖津宮の普請方として、宗像郡大島に赴任。
玄界灘に位置する筑前大島からは、沖合を航行する異国船の威嚇姿がしばしば見られた。
この大島の地で、福岡藩主と親族であった薩摩藩主の意を受けて匿われていた、
薩摩藩では実力者と接点を大きく持っていた北条右門と平野國臣が出会う。
沖合に出没する異国船を見つつ、北条と平野は国事関係の議論を交わし、危機感を高める。

1852年(嘉永五年)8月、長崎においてオランダ商館長は明年米国使節来航を報告し、
これを知った福岡藩主は翌月あわただしく江戸へ出府する。
そして、これに影響され國臣も二度目の江戸藩邸勤務となる。

1853年(嘉永六年)、26歳の春、國臣は福岡を発ち、
京都など名所旧跡を巡りつつ江戸に着く。
当時黒船来航の騒ぎで江戸は混乱のさなかにあり、流通は混乱、幕政も右往左往していた。
國臣は、黒船に対処できない幕府の対応に、そしてそれを打ち払う武力を、
自らで作ろうとせず、外国からの武器輸入で済ませようとする態度に、意気消沈する。
1954年(安政元年)秋、悶々とした状態で帰国の途につくが、打開策を見いだせない
自らに目標を見いだすべく、国学、史学、兵法学、天文学等を学ぶことになる。

1855年(安政二年)4月、28歳の初夏、國臣は長崎に赴任し屯営の経理を担当する。
肥前と筑前が隔年交代で兵を長崎に派遣していたが、黒船の来航を期に、
その派遣回数は頻繁になり、外国人と接する機会も大幅に増えていた。
國臣は、幕府の海軍伝習所の教師としてやってきている
オランダ人、イギリス人、フランス人の態度の卑屈さに憤り、嘆き、出処進退を考える。
「家族が大切なことと、この堕ちてしまった日本の国威を取り戻すこと」
いずれが大切かと。

1886年(安政三年)二月、理論家のスタートとなる論文を書き記す。
「対策草稿」である。

謹対尊問(行政の指導者としての姿)
 国民を励まし強国にする道は経伝に明らか。
 物事や道理に精通していて、学問が広く、守る道の正しいことを知っている
 国君で無いならば、天下を治めることは出来ない。

励士(学校教育、身分差別の撤廃)
 そもそも、国民を励ます道とは、その気概を励ます道のことで、それは教化に在り。
 先ず館(学校)を建て開放して、文武の達人を選び師として、
 六芸(士が学ぶべき六種の技芸、礼楽射御書数)の玄人を挙げ備え、
 門生を入館させ文武を習わせ、身分差別を取り払い
 上下の情が通えば、大いに国を治める一助となる。

安民(国民の平和、愛、安楽な生活)
 国民を教化し、その衣食を豊かにして、平和で安楽な生活をさせる事。
 書経によれば、民衆は邦の基本である。本が固ければ国は安らか。
 誠なるかな。若し農夫が農具を捨てれば、海中は飢える。
 織婦が機を破れば凍える。農夫織婦は国の根本なり。
 商工士とともに国の枝葉なり。

去奢入倹(つつましく生きる)
 贅沢のし放題で財産が乏しくなれば、まさに貪欲な心をあばく。これ人の通常なり。
 若しこの人が大人であれば聚斂するだろう。若しこの人が小人であれば盗人になろう。

強国(先ず政治を正す、優秀な官吏を選ぶ、食が足り、兵を足らす)
 そもそも国を強くする道は、必ず、先ず政治を正しくする。
 そのために優秀な官吏を選び当たらせる。古に今を重ね、悪ければ正す。
 食を足らし、兵を足らす。また、民衆の信用を得るように努めること。
 害を除き、民を安じ、贅沢をやめ国を富ませ、食足り兵備え百官各々その任を努め、
 その威光が海外を震撼させる如くであれば、まさに主客転変、その勢いが自らを守る。
 内に邪まな者や恨みを抱く者が無く外には武備防御が整っていれば、すなわち強国と言う。 
JUGEMテーマ:幕末 歴史
平野國臣 | 00:23 | comments(0) | - | - | - |
平野國臣 vol.1
平野國臣の名を知る平成25年に生きる人は非常に少ないものであろう。
多くの人が知っている人を挙げて紹介すると、「西郷隆盛の命の恩人」である。

幕末に多くの志士の活動の素地を築いた彼が歴史上に登場しないのは何故なのか。
考えられる理由は多々存在するが、幕末の歴史を全て知りうる訳ではないが、
語られるべき人物であると私は断言する。

彼は、福岡に生まれ、福岡を拠点として全国の志士を駆り立て、
1828年から1864年の幕末激動期36年間を走り抜けた。

私のような志士活動も行わない、歴史について原著を読んだことも無い人間が、
平野國臣を語るのは恐れ多いが、産業がなくなりつつあり、
日本を取り巻く環境も一変し、社会的な変化が求められるている時代だからこそ、
日本人について真剣に考えて行動した、彼を追う意義があると私は考える。

以下、小河扶希子著 西日本人物誌17「平野國臣」を底本として、
彼について考えてみたい。
もちろん、平野國臣の代表的研究史料である、昭和4年発行の
春山育次郎著「平野國臣伝」を前提としていることを触れておきたい。
--------------------

平野國臣は30歳のときに彼自身が想いを込めて解明した名前である。
彼は、1828年(文政十一年)福岡市地行の福岡藩武術師範である
平野吉郎左衛門能栄の次男として生まれ、「巳之吉」と名付けられた。
しかしながら、福岡藩の養嗣子が美濃守と称されていて、
医者の助言によって「乙吉」と記名することになった。

父は足軽であったが、杖術・捕術・縄術を極め、武芸指南役になり、
数十年に渡って千人以上の藩士門人を排出した武芸師範であった。
また、福岡江戸双方で教授したため、行き来は百回を超えた。
一方、母は酔って出店の店主を連れて帰宅した父親に対して、
その夜は素通ししても、翌朝しっかりと意見し、
その行動を戒めた賢き母であり妻であったとのこと。

そして、その母は、乙吉に対して、寝床で子守唄代わりに、
百人一首をあやしていたため、彼は5歳で大半を暗唱できるようになっていた。

乙吉は11歳のころ、父母のもとを離れ、雄と改名し、
鉄砲大頭大音権左衛門の家へ小坊主として奉公した。
そこで認められ14歳のころ、鉄砲頭小金丸彦六の養嗣子となった。

1845年(弘化二年)18歳の春、福岡藩に普請方手附として仕官した。
そして太宰府天満宮の楼門修理にあたることになる。
わずか4ヶ月後、同年11月江戸藩邸勤務となり、福岡を出立する。
(続く)
JUGEMテーマ:幕末 歴史
平野國臣 | 22:05 | comments(0) | - | - | - |
神武必勝論 平野國臣 「討幕軍師 平野国臣(日下藤吾著)」より

平野國臣が政治、外交、軍事をめぐる当面の基本国策について、

1863年36歳のときに獄中で、便所の落し紙を紙縒りまとめた、

「神武必勝論」です。彼は牢屋の外で、長州藩が唯一尊王攘夷を

体現している時期に、一人冷静に日本を客観的に分析していました。


この文章の分かりやすい現代語訳が、

日下藤吾著「討幕軍師 平野国臣」には綴られておりますのでご紹介いたします。


(以下本文392p,393pから引用)

-----------------------------

(上巻)

国防には、正と奇いろいろの策があるが、

先制を以て原則とする。この術を敵が使えば、こちらの負けとなる。

どう考えても負けそうだというので、一矢を報いずに敵に降るのは正義ではない。

国家は敢然として守るべきだ。最近、隣りの清国が次第に衰亡しているのは、

以上のような英断が欠けているからだ。敗因はむしろ清国自身の内部にある。


今の日本に必要なのは断の一字だ。断といっても、無謀に兵を挙げることとは違う。

国論が一致しないのに領事館に放火したりして、外国の侵攻を誘発するのは、

阿片戦争の二の舞であり、暴論だ。さればとて、いつまでも屈辱的条約を守り、

安易に手を拱いて外国の侵攻を避けようとするのも誤り、これは庸断というべきだ。

ともに非であることは、清国の滅亡に照らして明白だ。


海内一和、軍備充実、親兵国を守り、将帥が精兵を率いて海外に赴き、

清国の軍をも駆使し、西洋の諸軍を制して必勝を期するのが英断である。

ただ、今はまだ英断の域に達していない、時勢にくらく安閑として努力していないからだ。

身を非常の地に投げうってこそ、非常の肚もすわり、

心を必戦に決して後、必勝の策は成るものだ。


日本は、国土の大きさ、その他、経済力では諸外国に劣っている。

だが、このことをやたらに心配するのは庸俗の愚見であり、智者のとるところではない。

現に、清国は国土も広く人口も多いが負けているではない。

今日、天下を通じて日本人の全部が必勝の肚を決めて蹶起するなら、

政治が上から命令せずとも、ぜいたくはやみ、武備自ら整い、軍用は足りるであろう。

対外的危機を直視して必ず蹶起することだ。


(中巻)ー省略ー


(下巻)

わが国には、伝統の武術がいろいろある。

近代の戦艦、火砲は工と物とを投入すればすぐにできる。

軍備が整うてから夷(外国)を攘ういうが、

兵器を作ることばかりが武備のすべてではない。


速やかに対外的認識を確立せよ。

機を延ばし、我れ未だ断ぜざるところに彼より戦を開くときは、

すでに手後れで国危く、千載に悔いをのこす。後手にまわって破れ、

敵に国体を汚されるおそれがあるなら、

少々の危険を覚悟しても必戦に決すべきである。


一時凌ぎの安逸を求め、干戈を用いないで平和を念願するのは、愚者の行うところだ。

必勝は天よりも下らず、地よりも生ぜず、今日の情勢下では、

人事を尽くさない限り、いくら天に祈ってもダメだ。

故に、遠征に勇断し、奮発勉強して必勝を期すべし。

出でて外を征するとも、いながら内を防ぐとも、戦いであることには、かわりなし。

外征の方が費用も少しかさむかも知れないが、その効果は数倍大きい。


恐るべきものは敵ではなくて、我れにある。

つまるところ、我れ敵を制すると我れ敵に制せられるとは、

我れ労すると労せざるとにかかる。

以上の外征の策を実施するのは、人にある。

今、天下はこの策を打ち出すのに好機である。


文久三年上巳稿成 平野次郎国臣

(引用終わり)


時は下って、約160年が経ちましたが、

平野氏が全身全霊でまとめたこの文書には未だに色あせること無く、

通用する事実が書かれていることに驚嘆せざるを得ないというか、

日本人の進歩の無さに愕然とせざるを得ません。


茲に、私たち平成を生きる日本人が、

平野國臣を学ばなければならない理由が存在しています。

JUGEMテーマ:幕末 歴史

評価:
日下 藤吾
叢文社
---
(1988-06)
コメント:付録の写真も見物です。西郷さん、大久保さん、平野さんが並んでいます。

平野國臣 | 21:00 | comments(0) | - | - | - |
平野国臣 小河扶希子著 西日本人物誌17「対策草稿」

平野國臣という福岡市生まれの幕末の志士は、

歴史の表舞台にほとんど現れなかった福岡藩士です。

彼は、中国や日本の歴史に興味をもち、深い学識を持っていました。

そして、職としても、太宰府天満宮など宗教施設の建設に

携わるなど、天皇を尊重する立場にその考えの中心をおいていました。


様々な志士と接点を持つ中で、世の中の情勢は、

腐敗してどうしようもない徳川幕府社会を壊し、

新しい体制を築く他ないと決意し、薩摩藩を中心として、

日本全国を倒幕体制に動かそうと奮迅しました。


彼が、29歳のときに行政指導者としてのあるべき姿を以下のようにまとめています。

以下、平野國臣が1856年に記した

「対策草稿」訳 本著p214-p219を引用します。

---------------------------------------------------------------

謹対尊問(行政の指導者としての姿)

国民を励まし強固にする道は、物事や道理に精通していて、学問が広く、

守る道の正しいことを知っている「君子」でないならば、

天下を治めることは出来ない。

今、身分地位の上下も、いとわずこぞって取り組めば、

まさしく国家が栄えないことがあるだろうか。

小臣もとより才知は劣り、文才も乏しい。

とはいえども、未だ働き尽くしていない。

かたくなな考えは取り払い、その立場をわきまえ、

あらかじめ劣った考えも述べて上申する。

いつも失敗ばかりしているものも、たまの明暗も採用されれば有り難く、

小臣のこの上ない栄誉、あえて真心を敷きましょう。



励士(学校教育、身分差別の撤廃)

そもそも、国民を励ます道とは、その気概を励ます道のことで、それは教化にある。

教えて導いて善い方向にすすませること。それには、まず館(学校)を建て

ひろく開放して、文武の達人を選び師として、

六芸(国民が学ぶべき六種の学問)の玄人(教師)を挙げ備え、

門生を入学させて文武を習わせ、身分差別を取り払い

上下の情が通じあえば、多いに国を治める一助となる。

加えて毎月三回学力を覧る。怠けているか進んでいるかと見はかることも大事である。

願わくば君候自らお出ましになれば大いに励みになる。

伏して願うに、文武芸術の備えは未だ無しといえども、

時世に備えた訓練鍛錬は必要である。

試しにこの益を教え倦きずに学んで厭わなければ、

すなわち一年もすれば、士気も進まないことがあろうか。


加えて、外寇のことも託し、敵の目の前で、しばしば練兵を行う。

君侯またその場に臨み、国民を常に空虚の無いようにし、

憂事に耐えられないことがないようにすれば、励むことへの近道といえるだろう。



安民(国民の平和、愛、安楽な生活)

国民を教化し、その衣食を豊かにして、平和で安楽な生活をさせることが望ましい。

書経によれば、民衆は邦の根本である。本が固ければ国は安らか、誠なるかな。

もし農夫が農具を捨てれば、国内は飢える。機婦が機を破れば凍える。

農夫機婦は国の根本なり。商工業はともに国の枝葉なり。

枝葉が繁茂してもその根蔓を出さなければまさに倒れる。

また、思いやりを持たないのは良くない。愛さないのも良くない。

愛のほかにはない。従って望ましいには苦楽を共にすることである。


故に国民を安楽させるということは、先ず負担を軽くする。

物事を簡略にする。もし新しく鍛冶屋新田などを開けば、

事情心情を汲み取り、無益であっても大いに民の憂いのためになる。

財産は人が生み出すものである。

求める物は、農業であれば地中にある。水利は旱魃のために施す。

風害、害虫よけを設ける。あるいは商業であれば、商品の流通、貨幣融通替え。

あるいは囚科を正して盗賊の憂いを鮮明にし働かせる。

山は禁獣無く狩らず、野は禁獣無く追わない。

もって国民の望みをあわせ、かつ清廉潔白な官吏保正を選んで任せ、

民を信用してつかわせれば、すなわちすでに国民は安楽である。



去奢入倹(つつましく生きる)

贅沢のし放題で財産が乏しくなれば、まさに貪欲な心をあばく。

これ人の通常なり。若しこの人が大人であれば聚斂するだろう。

若しこの人が小人であれば盗人になろう。

今日、贅沢者をつくっているもとは、その制度にある。

制度をつくるべきは、たとえば、遊民、刀剣、民家、衣装、飲食など、

商業工業などは、一概に制度をつくるのは難しいであろうが、

きちっとすべきである。怪しい宴会など止めさせる。

試しに期間を三年とする。

中でもよくないと思えるものを上げれば、

財、広い田圃、革、織物、金銀銅鉄、玉石等々。

工費が膨大なものは損なうことも多い。よいことは稀なり。

実に無益な贅沢品で国土の弊害となっているものもある。

人が貴いかいやしいかなどは、持ち物やみかけで判断してはならない。


今年より、男女十五歳以下のものは新たに喫煙してはいけない。

その後加齢しても戒めること。蘭学者によって持ち込まれた

贅沢なものが遊民を甚だしくしている。どもすれば西洋西洋という。

輸入品、ガラス製品、製薬品等々のものあそび品が喜ばれていると耳にする。

風俗を大きく妨げている。

守備防禦と称した戦艦火器等の航海術を指導する彼等について、

それ自体が謀で浪費させられているが、彼等の日常や食生活も受け入れがたい。

彼等と同じ衣服に改めようとしている。我々は古来のままでいい。

持ち物も華麗な装飾を施したものではなく、質朴なものでいい。

住まいについては、あらかじめ造営の法則を定めるべし。

飲食についても贅沢な宴会を止めること。

衣服についても、かねてより贅沢な衣服は戒めることになっている。



強国(先ず政治を正す、優秀な官吏を選ぶ、食が足り、兵を足らす)

そもそも国を強くする道は、先ず先ず政治を正しくすること、

そうすれば誰もが正しくなろうと努める。そのために優秀な官吏を選び、

当たらせることも大事である。

古に今を重ね、悪ければ正す。食料を十分に満たし、軍備を整え、

国民には信用を得るように努めること。


呉子曰く、昔、国家を図るは必ず先ず百姓に教育を施し、万民と親しんだ。

百官が先ず賢くなければ、強国は成り得ない。

事の最善をもとめる匠、先ず先ず器量。その器量が国を治める。

賢く、才能学術がある人を推挙して、当たらせる。

完璧を求めず、小さな過ちは許し、才能を取る。

(黒田家初代藩主)長政公の戒めに、賢人に続いて各々進み、

愚将がもし監督不肖であれば、小人が位に臨む。

基本は、大本を掌握し一つに纏める。

これを有徳の君主という。ただ難しいのは監督者の選任であろう。


食が足るとは、飲酒、穀潰しを減らし、天災に備え、農夫を奨励し、

遊び人を懲らしめ、野に荒田凶田を無くすこと。

山には薪材の欠乏を無くす。武士は古来よりこれに従い、

(行軍の時などの食料)粮糒を貯えている。

兵を足らすとは、辺境に燧台を置き、號砲響通の法を定め、常に候はこれに臨む。

牧場を開き牛馬を多く家畜する。武器の製造、玉薬の作りだめ。

巨砲軍艦を製造し、かつ教義訓練を行う。また節制に努める。


害を除き民を安んじ贅沢をやめ国を富ませ、食足り兵備え、

百官各々その任を努め、その威光が海外を震撼させる如きものであれば、

まさに主客転変、その勢いが自らを守る。


内に邪な者や恨みを抱く者が無く、外には武備防御整っていれば、すなはち強国と言う。


安政三年卯二月稿成  小金丸穂徳 九拝啓白

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ここに、平野國臣がこれからの自らの行動の柱である、

倒幕行動から新しい仕組みづくりにかける

想いがすべてまとめられていると思います。

現在の日本にもそのまま当てはまる文言です。

何度も読みくだいて、自分のものにしたいと強く感じました。

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評価:
小河 扶希子
西日本新聞社
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(2004-04)
コメント:平野國臣入門著としてはもっとも読みやすく、熱のある作品だと思います。

平野國臣 | 09:17 | comments(3) | - | - | - |

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